デヴィッド・ボウイ大回顧展にやっとこさ行ってきた@天王洲寺田倉庫。
デヴィッド・ボウイが幼少期から死ぬまで影響を受けたいろんなモノあらゆるモノ(例えば『2001年宇宙の旅(スペース・オデッセイ)』だったりにインスパイアされて出世曲“スペース・オディテイ”が作られたりしたように)、そのオリジナルのものから影響受けて、それを自分が表現したり、自分の分身が表現したりすることで、それがデヴィッド・ボウイという存在=オリジナルのデヴィッド・ボウイになって世の中にやって来たんだということ。
その“事実”に、僕はまず勇気付けられました。
そして、ホッとしました。
オリジナルは、自分の中で産み出さなきゃいけないって、根源的な恐怖心を僕は持ち続けてきたと思うわけです。
そして同時に、自分にはその“オリジナル”が無い、という絶望感にずーっと苛まれてきたとも思うのです。
一方で、自分こそがオリジナルなんだって、奴には負けないぞ的な(奴って誰だ?多分自分の中で勝手に産み出した仮想な“奴”)自負心も(人並みに)あったりもします。
つまりオリジナルへの劣等感と優越感を同時に持つ、まさにそんな芸術コンプレックス【複合状況】を抱いてずーっと生きて来たんだと思うのです。
でもボウイは、(多分そんな芸術コンプレックスを彼もきっと抱えながらも)、自分のオリジナルを産み出した、死ぬまで産み出し続けた。そして、そんなボウイに影響されて、またいろんなアーティストやクリエイターが芸術を世に産み出している。
つまり、アートのオリジナリティというのも、生物のDNAが次世代に継承されるように、そのオリジナリティに影響を受けて、受けあって、継承されていくんだってあらためて気づかされて、僕はこの展示を見てなんか、すごくホッとしてしまったのです。
僕がバラエティプロデューサーという肩書で生きて行こうと思ったことは、少なくとも間違っちゃいないんだって、ボウイに教わった気がするのです。
「誰でもなりたい人間になれるんだ」
そんな文字にしてブログに書いたら歯の浮くようなデヴィッド・ボウイのセリフを、40半ばのオッさんがブログに書いているという事実、つまりそれにも劣等感を感じるわけだけど、でも結局そんな想いを想い続けることだけが、結局その人のオリジナルなんだって思うわけです。というか信じるわけです。というか、信じるしか無いわけです。
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