大地は僕ら自身について万巻の書よりも多くを教えてくれる。なぜなら大地は僕らに抗うからだ。人間は障害に挑むときにこそ自分自身を発見するものなのだ。《p13 Ⅰ 定期路線》
僕は教養、文化、職業といったフィルターを通して眺めなければ、どんな風景も意味を持たないのだということに気づいていた。《p20 Ⅰ 定期路線》
僕の中でいったい何が起きていたのか、それは自分でもよく分からない。ただ、満天の星が磁力を帯びて僕を引き寄せようとするとき、僕を地面に繋ぎとめてくれる重力がある。その一方で、それとは別のもう一つの重力があって、その重力は僕を僕自身へと連れ戻す。言ってみれば、自分の体の重みのおかげで、懐かしいさまざまなものの方へ連れていかれるような感じだ。《p104 Ⅳ 飛行機と惑星》
砂漠では、人は自分の若さが無機質な風景の中ですり減っていくのを怖れはしない。逆に、自分から遠く離れたところで世界全体が年老いていくように感じるのだ。《p119 Ⅵ 砂漠にて》
水よ!おまえには味も、色も、香りもない。おまえを定義することはできない。人はおまえもことを何もしらないまま、おまえを味わっている。水よ、おまえは生命に必要な何かではない。おまえが生命そのものなのだ。おまえは五感によっては説明しがたい喜びで僕らを満たす。僕らが手放してしまったすべての力が、おまえと一緒に僕らの中に帰ってくる。僕らの心の中のすべての涸れた泉が、おまえの恵みによってまたこんこんと湧きだす。《p252 Ⅶ 砂漠の中心で》
真実というのは論証しようのないものだ。もしオレンジの木が他の土地ではなくこの土地でしっかりと根を張り、果実を実らせるのだとしたら、この土地こそオレンジの木にとって真実なのだ。もし他のどれでもなく、この宗教、この文化、この価値観、この活動形態が人の心の中であの充足感を準備し、眠れる君主を解き放つなら、この価値観、この文化、この活動形態こそその人にとっての真実なのだ。論理的でないって? 論理などというものには、僕らの人生を適当に解説させておけばいい。《p256 Ⅷ 人間たち》
もし諸君が戦争を否定しない人に戦争のおぞましさを納得させたければ、その人を野蛮人だと決めつけないことだ。相手を裁く前に、まず理解しようと努めることだ。《p274 Ⅷ 人間たち》
人間とその欲求を理解したいと思えば、また、人間の内に潜む本質的なものに着目して人間を捉えたいと思えば、あなた方一人一人の真実のどれが正しいか、正しくないかといった議論をやめることだ。よかろう、あなた方が正しいのは認めよう。あなた方は皆、正しいのだ。何しろ論理というのはどんなことでも立証してしまうのだから。論理の手にかかれば、この世のすべての不幸をせむしのせいにするような人間でも正しいとされてしまう。《p276 Ⅷ 人間たち》
イデオロギーをめぐっていくら議論を重ねても無駄だ。結局、すべてのイデオロギーは論証可能で、しかも互いに対立し合っているのだから。そんな議論は人間の救済に何の期待も抱かせてくれない。結局のところ、僕らの周りの至るところで、人間は同じ要求を表明しているのだ。そう、僕らの望みは解放されることだ。《p277 Ⅷ 人間たち》
すべての人が、程度の差こそあれ、漠然とでも本当に人間になりたいと望んでいる。ただし、気をつけなければいけないのは、その解決法の中には人を欺くものもあるということだ。たしかに軍服を着せることによって、人々に生気を取り戻させることはできるだろう。皆、戦争賛歌を歌い、戦友とパンを分かち合うにちがいない。一つの目的を仲間と共有する喜びを味わって、探しものを見つけ出した気にもなるだろう。だが、結局、人々はパンを与えられる代わりに命を奪われるのだ。《p279 Ⅷ 人間たち》
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