6日目のクリエイターズキャンプは西村真里子さん。彼女の職業は、講義の中で教えてくれたけど、ポリネーター(pollinator)。ミツバチのように花粉を媒介する、つまりいろんなアイディアと人を受粉させるお仕事。
西村さんは今回の講師の中で唯一の女性。
そしてテーマは『多様性の未来を考える』。
はじめこのテーマを提示したら、西村さんは私でよいのか?と思ったそうだ。
でも僕の想いを直接会ってお話ししたら、すごく同意してくれて、是非このテーマで話してくださることになったのだ。
多様性。
ダイバーシティ。
すごく大事なことだと思う。
でもこれを題材にすると、なんていうかすごく人権闘争的、あるいは文化教育的な、物腰になってしまう。
だからって、それをおざなりにすると、世間はいつも
「いつまでも若々しく」
だの
「女性らしく」
だのの女性ターゲット的な商売話になってしまう。
男性だってそうで、
結局ビジネスのマーケティング話になると、
「男はいつも女のオッパイを気にする生き物」で、
「女はいつも自分の肌荒れを気にする生き物」
って通り一遍の括りで商売の餌にさせられてるんだと思う。
なんか僕はそこに滅茶滅茶違和感を感じているのだ。
僕はこのキャンプをやるにあたって、ぜひこの話をしたかった。
なので、あえて“女性”に講師をして欲しかった。
でも、ここで、“唯一の女性”とか西村さんを“女性”でくくってしまうと、結局僕のやりたいことの本意とズレてしまうのだが、
強いて言えば、その“ズレ”をテーマに話したかったから、なので女性の講師なのだ。
僕の想い、それは簡単に言っちゃうと(簡単に言っちゃうと誤解も招きやすいが)、もういちいち何かを女性とか男性とかで区別するのとか、いらないんじゃないか?ってこと。
何かを作り出すクリエイターは、そのクリエイトした産物で云々言われるべきで、それを作った人がどんな人かなんて、性別はもとより、年齢や、国籍や、それこそ宗教とか趣向とか学歴とか肩書き等で、判断するのはナンセンスなのだ。
でも、僕らは、判断してしまう。
というか正確に言えば、判断を促すようなキャッチコピーやレッテルでその個人をグループ分けして評価する。
でもね、例えば思うのだ。
歴史の教科書見てると、名前の出ている歴史上の人物はほとんど男性だ。で、芸術家になると、もうほとんど女性はいない。
だけど、今の新人の美術展とか行くと、出品者の7割くらい女性だ。
ということは今、人類のアートは、有史以来一番女性が活躍してる時代なのだ!
印象派やキュービズム等々、現代アートが進んできたなかで、さらに次の潮流を作り、芸術を新たに覚醒させるのは女性なんだって思うと、これから見たことない作品が産まれてくるんじゃないかって、ドキドキするのだ。
この僕のドキドキは、性別で区別するな!って言ってることと矛盾するドキドキだ。
だって女性が活躍する新たな世界の到来へのドキドキだから。
でも、このドキドキこそが次の人類の時代を作ると思っている。
だから、そんな矛盾やズレについて、あえて“女性”の西村さんと話したかったのです。
実際やってみて素晴らしい講義になりました。西村さんが素晴らしいヒトだから。
聞いていた方も熱くなってたと思う。
それこそ女性も男性も、老いも若きも、熱く。
講義の内容は、受講した方がまとめたくださってます↓
『多様化とは"「本当の自分」で選択すること"かもしれない』
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