野田秀樹作・演出『足跡姫 時代錯誤冬幽霊(ときあやまってふゆのゆうれい)』を観た@東京芸術劇場プレイハウス。
野田さんによると作品は中村勘三郎さんへのオマージュだという。
観劇前に購入したパンフレットに目を通す。冒頭にある野田さんの勘三郎さんの足跡についての文章がものすごく素晴らしかった。おもしろくて洒脱で友情に溢れていて、そして勘三郎さんの素晴らしさが伝わってくる。
そして芝居はオマージュというだけあって、江戸幕府初期の歌舞伎の話、まだ女歌舞伎があった頃の、出雲の阿国と由井正雪の乱のエピソードで進む。そこは相変わらずの野田地図。ダジャレ、見立て、数々の言葉遊びが散りばめられる。いつしか、勘三郎さんへのオマージュというのを忘れ、作品世界にのめり込んでいく。
僕は野田秀樹さんの作品は夢の遊眠社後半から野田地図ほとんど観てるんだけど、野田さんの作品はいつも決まってそうだ。
数々のストーリー展開の中で彼が縦横無尽に散りばめた“遊び”で、いつしかそれらの目眩しにあって、彼がその作品で伝えたい(そんなものがあるのならば)メッセージを忘れて遮二無二冒頭させられてしまうのだ。
そして休憩を挟んで後半、エンディングに向かい、突如彼の伝えたかったことが一気に顕現する(ことがよくある)。今までゲラゲラ笑ってた自分を恥じるような、突然突きつけられる壮絶な世界の空虚さとか、戦争の悲惨さ、とかとか。その衝撃に打ち拉がれて家路に着くことが何度もあった。今回も野田秀樹にヤラレタ、と。その彼の天才性に感嘆しながら嫉妬しながら、愛憎交えた想いが、野田秀樹への僕の想いでもあるのだ。
でも今回は違った。
今回の『足跡姫』でエンディングに向かって突きつけられたメッセージは、すごく優しく、まごうことなき中村勘三郎へのオマージュだった。
舞台では本当のことは起こらない、起こってはならない。全てが嘘で見せかけなのだ。だから死だって、見せかけなのだ。
衝撃に打ち拉がれることは、なかった。勘三郎さんへの友情に涙して家路に着いた。
いや、という意味では、また野田秀樹さんの目眩しにやられたということではあるのか。
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