映画『インフェルノ』観た。ロン・ハワード監督、トム・ハンクス主演のラングドン教授シリーズの第3弾。
映画は全部観ている。
そしてダン・ブラウンの原作小説は、
「天使と悪魔」
「ダ・ヴィンチ・コード」
「ロスト・シンボル」
と読んで、「ロスト・シンボル」がイマイチだったので、「インフェルノ」は読んでいなかった。
そうしたら、「ロスト・シンボル」を通り越して、映画化された。
映画の中で、「ロスト・シンボル」がなぜ映画化されなかったかの謎解きがワンシーン織り込まれていて、そこはおもしろいなあ。
このシリーズの映画化は、なんか難しい。小説の歴史的蘊蓄がおもしろいのだけど、それを映画にすると、どうしてもはしょらざるを得ないから。なので、歴史テイストな謎解きのアクション映画になってしまう。
そういえば、そんな未映画化の「ロスト・シンボル」だけど、当時小説を読んですごく影響を受けた記述があったのを思い出した。
以前書いていたブログの2010年の3月25日に、「ロスト・シンボル」を読んだときの感想を書いていた。↓
先日の日曜にダン・ブラウンのラングドンシリーズ待望の第三弾『ロスト・シンボル』を読了。 、、、作品としての出来は置いといて、、、その中にでてくる純粋知性科学に、ものすごくインスピレーションを受けてしまった。
汝、おのれの神なるを知らざるか(下P326)
神はまさしく存在する-万物に行き渡る精神エネルギーとしてね。そして、わたしたち人間はそれを模して作られたのだから-(下P338)
神は多の集まりのなかに見いだされる・・・一ではなく。(下P345)
純粋知性科学、、、作品の中で出てくる、いろんなその科学的証拠話が実際どこまで現実なのかは知らぬが、これを読んで、僕が今まで考えていた、神様という存在の感覚が、ある意味百八十度がらっと変わってしまったのである。
なんていうか、僕はよく神頼みしてるのだが、それって、神様が、それに人格的なものがあるかないかは置いといて、、、なんか世の中の確率というか運気みたいなものをなんとなくコントロールしてるものを神様とよんでいるんじゃないか、とか信じていたのだが、それって神様は、自分ではない他者として=僕の上側・外側にいらっしゃって、その方にお願いしている、って構図だった。
天にまします神様よ、一生懸命がんばるから、僕を見守っていてください、、、的なね。
で、これ読み終わって、実は神様ってのは、僕らの意思として=内側にあって、その意思というか、エネルギーというかを、人は神と呼んだのではないか?、、、
って考え方に、なんかすーっと納得したものを感じたのだ。
神は自分の内部にあって、自分自身である
この考え方を採用するとすると、自分の意思というものをもっとちゃんと神頼みしている願望と、テンションを同じにしなくちゃいけないとでもいうか、うーん、なんだ?
うまく言えないけど、要するに、神様がいるとして、それを信じるとして、その神様が外にいるというより、うちにいると考えたほうが、ポジティブになれるような気がする。
自分の意思からアゲていかないと、神頼みも意味ないとでもいうか、自分がジャスト思ってる”意思”こそが、世界の確率を司ってるって、思える気がして。
というのを小説で体現しちゃうってのも、なんだかなー、とか思うけれども、なんか、この考え方のチェンジって、僕の中ではすごいすごい革命的転換なのである。
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