みなさんの日常は、「閉じた世界」ですか?「開いた世界」ですか?
僕は、半々かな、今のところ。いや、閉じてる世界にいることの方が多いかな。
大菩薩峠、行ってみたくて、登ってみた。
中里介山の長編小説『大菩薩峠』の舞台。
山登りやってみたくて、でもやったことなく、先日、高尾山1号路で初チャレンジして、まあ少なくともこんな運動経験僅少の僕でもやれるとこからやってみようと、リュックとか靴とかスティックとか買っちゃったし。
今回はその『大菩薩峠』読んで以来の憧れの大菩薩嶺。
雨降りばかりの2016年9月で多分一番のいい天気。暑くもなく、寒くもなく、時々太陽光がのぞく。僕の雨男伝説が払拭されるかも。
↑『君の名は。』なら間違いなく彗星が降ってくる景色。多分この奥には口噛み酒が祀られていてもおかしくないくらいの絶景。
↑頂上近くで、ついに雲間から富士山が顔を出す。これは、感動する。富士山ってなんでこんなにカッコイイんだろ?毅然として屹立して荘厳で幾何学的で。
手前の直線を有する上日川ダムの幾何学性と対称性まで感じる。
しかしこのところ身体性をすごく考える。
文章を書いていても、結局大事なことは、背筋力なんだって気付かされる。だって背筋力続かないと、猫背になるし、肩こるし、キーボードも打てん(笑)。
村上春樹さんが「小説を書くために、走る」って言ってること、自分も書きものしてみてすごく実感する。
でも、自分で山登りしてみて、それは”体力をつけるため”、、、ってだけでないことがわかった。
つまり”開いた世界”で自分の能力を解放したいから。
日常生活や仕事で襲ってくる”精神への負荷”は自分の能力の拘束や抑圧的なところが多い。
つまり”閉じた世界”に自分の能力を押し込める負荷。だから息苦しくて窮屈を感じる。
一方で運動の”身体への負荷”は自分の能力の拡散や解放的な行為を意味しているのではないか。
”開いた世界”で自分の能力が通用するかの挑戦。
どちらもきついし、我慢や忍耐を要求されるけど、少なくとも”身体への負荷”は気持ちがいい。
気持ちいい、だから人は体を動かすのだ。
そして、身体を解放することで、精神も解放できる(気がする)。
普段体を動かしている人には当たり前かもしれない想いを、実際動かしてみて知るという、貴重な経験だった。
で、きっと村上春樹さんは、日常の仕事で「作家」という、”開いた世界”にいる。そこで”自分の精神の解放行為”を行っている。つまり彼にとって、”書く”と”走る”は同じ、気持ちいい行為なのだ。
みなさんの日常は、「閉じた世界」ですか?「開いた世界」ですか?
僕は、半々かな、今のところ。いや、閉じてる世界にいることの方が多いかな。
僕自身も日常の《作品を作る行為》を、僕の精神の”開いた世界”への解放とすることにしたいと想う。
大菩薩峠にて誓う。
そして、もう一つ誓う。小説『大菩薩峠』をいつか読み切ろう、と。だって長くて途中で挫折したままなのです。(笑)
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