『点・線・面』by隈研吾

隈研吾教授の新刊『点・線・面』なんだこれは!無類のおもしろさ!!圧倒的な思考表明。建築ってこんなにもあらゆる事象・思想・生命への“かかわりごと”なのか。

コンクリートを使ってインスタントに生成された大きくて頑丈なヴォリュームの中に、可能な限り多くの人間を詰め込むというのが、二十世紀の基本的なライフスタイルであり、経済システムであった。 p4 


空間に、点や線などの粒子が存在しないと、人間は不安になる。人間だけでなく、すべての生物が、粒子のない世界には棲むことができない。自分のまわりに粒子がないと、自分と世界とをつなぐことができないからである。生物には粒子が必要なのである。p12 


二十世紀初頭、アートは二つの革命を体験したといわれる。ひとつは形態の革命であるキュビスムであり、もう一つは色彩の革命であるフォービスムであった。二つの革命によって過去のアートのすべてのルールを破壊され、アーティストは完全な自由を獲得したはずであった。p13 


すべての革命の直後に、構成という名の主知主義的傲慢が登場する。アートにおける革命でも、政治における革命でも、革命の勝者である新エリートは構成と言う名の主知主義的傲慢に陥る。新エリートは、メタ(上位)レベルに立つ特権的な主体による構成=計画で、世界を支配しようとする。政治、経済において、主知主義は計画と呼ばれる。ソ連は計画経済の実験場であった。すなわち計画の混乱と不毛の実験場であった。p13 


マリオ・カルポは、コンピューテーショナル・デザインによって、建築デザインが、引き算のデザインから足し算のデザインへと劇的に転換したと看破した。 

かつては図面の制作と施工は分断されていたが、コンピューターによって、両者はひとつの連続した流れ、すなわち描き続け、作り続けるひとつのシームレスな流れへと転換したと、カルポは見抜いた。建築とは、今や完結したひとつの作品ではなく、変更し続け、修正し続ける、不断のシステムと変わり、それを彼は足し算のデザインと命名した。p19


しかし今、形態のデザイン論から、時間のデザイン論への転換が起こりつつある。時間という流れの中で建築家を相対化し、物質も人間もすべてが、時間の中を漂う粒子であるとする世界観にわれわれは回帰しつつある。p23 


小さい物はいつでもわれわれの近くにあり、いつでも近くに引き寄せることができ、直接触れることができる。世界は大きい物へと一方的に進化しているわけではなく、大きい物がより大きくなり、速い物はより速くなるほど、僕らは小さい物、ゆっくりした物に魅了され、引き寄せられてしまう。大きい物と小さい物との間で、僕らは振動し続けている。量子力学的な重層性は、高尚な学問の世界の中の出来事ではなく、僕らの日常感覚そのものなのである。p43 


バラツキがあり、汚れがあり、傷みがあり、デコボコしているということは、それだけ点が自由であり、点がより点らしいということでもある。点をより自由な存在として、解放してやろうと考えるならば、汚れを歓迎し、傷みを楽しまなければならない。 

きれいで整然としすぎた建築は、汚れを許容しない。現代の日本建築は、その不寛容な方向に向かって進化し、その結果、日本の都市は汚れを許容しない、居心地の悪い環境となってしまった。p92 


点と点が距離を置いて、ゆるやかに雑然と集合している状態が離散的であり、その対極にあるのが、点と点がが密着して、隙間のない状態である。離散的状態こそが、人間関係の理想であり、すべての点が密着した状態の究極がファシズムではないかと、砂漠を旅しながら僕らは議論した。p105

角田陽一郎 Kakuta Yoichiro Official Site [DIVERSE]

バラエティプロデューサー/文化資源学研究者(東大D2)/ 著書:小説『AP』『仕事人生あんちょこ辞典』『最速で身につく世界史/日本史』『天才になる方法』『読書をプロデュース』『人生が変わるすごい地理』『出世のススメ』『運の技術』『究極の人間関係分析学カテゴライズド』他/映画「げんげ」監督/水道橋博士のメルマ旬報/週プレ連載中/メルマガDIVERSE

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