一神教は秩序を説明できるが、悪に当惑してしまう。二元論は悪を説明できるが、秩序に悩んでしまう。この謎を論理的に解決する方法が一つだけある。全宇宙を想像した単一の全能の絶対神がいて、その神は悪である、と主張するのだ。だが、そんな信念を抱く気になった人は、史上一人もいない。p24
一神教のユダヤ教やキリスト教、イスラム教は、二元論の信仰や慣行をたっぷり吸収した。じつは私たちが「一神論」と呼ぶものの最も基本的な概念の一部は、二元論を起源とし、その精神を受け継いでいる。p25
じつのところ一神教は、歴史の展開を見ると、一神教や二元論、多神教、アニミズムの遺産が、単一の神聖な傘下で入り乱れている万華鏡のようなものだ。平均的なキリスト教とは一神教の絶対神を信じているが、二元論的な悪魔や、多神教的な星人たち、アニミズム的な死者の霊も信じている。このように異なるばかりか矛盾さえする考え方を同時に公然と是認し、さまざまな期限の儀式や慣行を組み合わせることを、宗教学者たちは混合主義と呼んでいる。じつは、混合主義こそが、唯一の偉大な世界的宗教なのかもしれない。 p27
人類は少なくとも認知革命以降は、森羅万象を理解しようとしてきた。私たちの祖先は、厖大な時間と労力を注ぎ込んで、自然界を支配する諸法則を発見しようとした。だが、近代科学は従来の知識の伝統のいっさいと三つの重大な形で異なる。
a 進んで無知を認める意思。
近代科学は「私たちは知らない」という意味の「ignoramus」という戒めに基づいている。近代科学は、私たちがすべて知っているわけではないという前提に立つ。それに輪をかけて重要なのだが、私たちが知っていると思っている事柄も、さらに知識を獲得するうちに、誤りであると判明する場合がありうることも、受け容れている。いかなる概念も、考え方も、説も、神聖不可侵ではなく、意義を挟む余地がある。
b 観察と数学の中心性。
近代科学は無知を認めた上で、新しい知識の獲得を目指す。この目的を達するために、近代科学は観察結果を収集し、それから数学的ツールを用いてそれらの観察結果を結びつけ、包括的な説にまとめ上げる。
c 新しい力の獲得
近代科学は、説を生み出すだけでは満足しない、近代科学はそれらの説を使い、新しい力の獲得、特に新しいテクノロジーの開発を目指す。
科学革命はこれまで、知識の革命ではなかった。何よりも、無知の革命だった。科学革命の発端は、人類は自らにとって最も重要な疑問の数々の答えを知らないという、重大な発見だった。
イスラム教やキリスト教、仏教、儒教といった近代以前の知識の伝統は、この世界について知るのが重要である事柄はすでに全部知られていると主張した。偉大な神々、あるいは単一の万能の絶対神、はたまた過去の賢者たちが、すべてを網羅する知恵を持っており、それを聖典や口承の形で私たちに明かしてくれるというのだ。凡人はこうした古代の文書や伝承をよく調べ、それを適切に理解することで、知識を得た。聖書やクルアーン、ヴエーダから森羅万象の決定的に重要な秘密が抜け落ちており、それが血の通う肉体を持つ生き物、つまり人間に今後発見されるかもしれないなどということは考えられなかった。p60
ヨーロッパの帝国主義は、それまでの歴史で行われた諸帝国のどの事業とも完全に異なっていた。それ以前の帝国における探求者は、自分はすでにこの世界を理解していると考えがちだった。征服とはたんに自分たちの世界観を利用し、それを広めることだった。一例を挙げると、アラビア人は、自分たちにとって何か未知のものを発見するためにエジプトやスペインやインドを征服したわけではなかった。ローマ人やモンゴル人やアステカ族は、知識ではなく、富と権力を求めて新天地を貪欲に征服した。それとは対照的に、ヨーロッパの帝国主義者は、新たな領土とともに新たな知識を獲得することを望み、遠く離れた土地を目指して海へ乗り出していった。p101
一九六九年七月二十日、ニール・アームストロングとバズ・オルドリンが月面に着陸した。この月探検までの数ヶ月間、アポロ11号の宇宙飛行士たちは、アメリカ西部にある、環境が月に似た辺境の砂漠で訓練を受けた。
ある日の訓練中、宇宙飛行士たちはアメリカ先住民の老人と出会った。老人は彼らに、ここで何をしているのか尋ねた。宇宙飛行士たちは、近々月探査の旅に出る探検隊だと答えた。それを聞いた老人はしばらく黙り込み、それから宇宙飛行士に向かって、お願いがあるのだが、と切り出した。
「何でしょう?」と彼らは尋ねた。
「うん、私らの部族の者は月には精霊が棲むと信じている。私からの大切なメッセージを伝えてもらえないだろうか」と老人は言った。
「どんなメッセージですか?」
老人は部族の言葉で何かを言い、宇宙飛行士たちが正確に暗記するまで、何度も繰り返させた。
「どういう意味があるのですか?」
「ああ、それは言えないな。私らの部族と月の精霊だけが知ることを許された秘密だから」
宇宙飛行士たちは基地に戻ると、その部族の言葉を話せる人を探しに探して、ついに見つけ出し、その秘密のメッセージを訳すように頼んだ。暗記していた言葉を復唱すると、訳を頼まれた者は腹を抱えて笑い出した。ようやく笑いが収まったとき、宇宙飛行士たちは、どういう意味なのかと尋ねた。彼によれば、宇宙飛行士たちが間違えないように苦心して暗記した一節の意味は次のようなものだった。
「この者たちの言うことは一言も信じてはいけません。あなた方の土地を盗むためにやって来たのです。」p103
人類は当初、すなわち100万年以上も前から、親密な小規模コミュニティで暮らしており、その成員はほとんどが血縁関係にあった。認知革命と農業革命が起こっても、それは変わらなかった。二つの革命は、家族とコミュニティを結びつけて部族や街、王国、帝国を生み出したが、家族やコミュにティは、あらゆる人間社会の基本構成要素であり続けた。ところが産業革命は、わずか二世紀余りの間に、この基本構成要素をばらばらに分解してのけた。そして、伝統的に家族やコミュニティが果たしてきた役割の大部分は、国家と市場の手に移った。p189
戦争の代償が急落する一方で、戦争で得られる利益は減少した。歴史の大半を通じて、敵の領土を略奪したり併合したりすることで、政体は富を手に入れられた。そうした富の大部分は、畑や家畜、奴隷、金などが占めていたので、略奪や接収は容易だった。今日では、富は主に、人的資源や技術的ノウハウ、あるいは銀行のような複合的な社会経済組織から成る。その結果、そうした富を奪い去ったり、自国の領土に併合したりするのは困難になっている。p211
戦争は採算が合わなくなる一方で、平和からはこれまでにないほどの利益が挙がるようになった。伝統的な農耕経済においては、遠隔地との取引や外国への投資はごくわずかだった。そのため、戦費の支出を免れることを除けば、平和にたいした得はなかった。一六世紀にもし日本と朝鮮が友好的な関係にあったなら、朝鮮の人々は戦争のために重い税を支払うことも、日本の侵略による惨禍に苦しむこともせずに済んだろうが、それを除けば彼らには経済的な利益はなかった。現代の資本主義経済では、対外貿易や対外投資はきわめて重要になった。したがって、平和は特別は配当をもたらす。日本と韓国が友好的な関係にあるかぎり、韓国の人々は製品を日本に売り、日本の株式を売買し、日本からの投資を受けることで、繁栄を謳歌できる。p212
他に劣らず重要な要因として、グローバルな政治文化に構造的転換が起こったことが挙げられる。歴史上、フン族の主張やヴァイキングの王族、アステカ帝国の神官をはじめとする多くのエリート層は、戦争を善なるものと肯定的に捉えていた。一方で、うまく理由するべき必要悪と考える指導者もいた。現代は史上初めて、平和を愛するエリート層が世界を治める時代だ。p212
生物学者の主張によると、私たちの精神的・感情的世界は、何百万年もの進化の過程で形成された生化学的な仕組みによって支配されているという。他のあらゆる精神状態と同じく、主観的構成も給与や社会的関係、あるいは政治的権利のような外部要因によって決まるのではない。そうではなく、神経やニューロン、シナプス、さらにはセロトニンやドーパミン、オキシトシンのようなさまざまな生化学物質から成る複雑なシステムによって決定される。p226
きわめて大きな重要性を持つ歴史的な展開が一つだけ存在する。その展開とは、今日、幸せへのカギが生化学システムの手中にあることがついに判明し、私たちは政治や社会改革、反乱やイデオロギーに無駄な時間を費やすのをやめ、人間の真の意味で幸せにできる唯一の方法、すなわち生化学的状態の操作に集中できるようになったことだ。何十億ドルもの資金を脳の科学的特性の理解と適切な治療の開発に投じれば、革命などいっさい起こさずに、人々をこれまでより格段に幸せにすることができる。たとえば抗鬱剤のプロザックは、政権を交代させはしないが、セロトニンの濃度を上昇させて、人々を抑鬱状態から救い出す。p232
幸せかどうかはむしろ、ある人の人生全体が有意義で価値あるものと見なせるかどうかにかかっているというのだ。幸福には、重要な認知的・論理的側面がある。各人の価値観次第で天地の差がつき、自分を「赤ん坊という独裁者に仕える惨めな奴隷」と見なすことにもなれば、「新たな命を愛情深く育んでいる」と見なすことにもなる。ニーチェの言葉にもあるように、あなたに生きる理由があるのならば、どのような生き方にもたいてい耐えられる。有意義な人生は、困難のただ中にあってさえもきわめて満足のいくものであるのに対して、無意味な人生は、どれだけ快適な環境に囲まれていても厳しい試練にほかならない。p233
文化や時代を問わず、人々は同じような喜びや苦しみを味わってきたが、そうした経験に認める意味合いには、おそらく大きな違いがあっただろう。となると、幸福の歴史は、生物学者の想定よりもはるかに振幅の大きいものだったかもしれない。この結論は、近代を必ずしも高く評価しない。人生を分刻みで逐一査定すれば、中世の人々はたしかに悲惨な状況にあった。ところが、死後には永遠の至福が訪れると信じていたのならば、彼らは信仰を持たない現代人よりもずっと大きな意義と価値を、自らの人生に見出していただろう。なにしろ、現代人ははるか先を見通したときに、何ら意義を持ちえない完全な忘却しか期待できないのだから。p233
人々が自分の人生に認める意義は、いかなるものもたんなる妄想にすぎない。中世の人々が人生に見出した死後の世界における意義も妄想であり、現代人が人生に見出す人間至上主義的意義や、国民主義的意義、資本主義的意義もまた妄想だ。人類の知識量を増大させる自分の人生には意義があると言う科学者も、祖国を守るために戦う自分の人生には意義があると断言する兵士も、新たに会社を設立することに人生の意義を見出す起業家も、聖書を読んだり、十字軍に参加したり、新たな大聖堂を建造したりすることに人生の意義を見つけていた中世の人々に劣らず、妄想に取り憑かれているのだ。
それならば、幸福は人生の意義についての個人的な妄想を、その時々の支配的な集団的妄想に一致させるこなのかもしれない。p234
歴史書のほとんどは、偉大な思想家の考えや、戦士たちの勇敢さ、先人たちの慈愛に満ちた行い、芸術家の創造性に注目する、彼らには、社会構造の形成と解体、帝国の勃興と滅亡、テクノロジーの発見と伝播についても、語るべきことが多々ある。だが彼らは、それらが各人の幸せや苦しみにどのような影響を与えたのかについては、何一つ言及していない。これは、人類の歴史理解にとって最大の欠落と言える。私たちは、この欠落を埋める努力を始めるべきだろう。p240
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