人生を変えるきっかけの日

あの3月11日から7年経ちました。

あの日、たくさんの人の人生が変わった日。

あの悲しみを忘れることはできません。

僕も、あの日は、人生が変わったきっかけになりました。

以下はそのことを書いた拙著『成功の神はネガティブな狩人に降臨するーバラエティ的企画術』(朝日新聞出版刊)の一節です。



《2011年3月11日》

  話は1994年の3月に遡ります。まもなく大学卒業の3月、卒論も提出し終わり、就職先が決まったら決まったで何もすることがない卒業の1カ月前に友人と行った貧乏旅行の旅先で、年上のメーカー勤務のサラリーマンと偶然知り合いになり、夜一緒に飲むことになったのです。

 「君は卒業したら何をするのか?」と質問され、「テレビ局に入って、エッチな番組を作る」と答えたら、「そんなふざけた職業を君は一生の職業にするのか?」と説教されたのでした。

しかし血気盛んな23歳の若者である僕は、

 「もし戦争になったら、いらないって言われる職業こそ、真の文化を作るのだ!」 

 とかなんとか生意気に反論しました。そして、その想いは、テレビ局に入社してからも変わらず、「くだらない」を最高のほめ言葉だと思って、常に「フリ」と「オチ」を考えながら、番組制作をしてきました。

  そして2005年にネット界からテレビ界への黒船来襲という堀江貴文さんの「事件」がきっかけで、僕も3割くらいお金のことを考えるようになりましたが、やはり7割は、その後もくだらないことを考え続けてきましたし、むしろその7割を生かすために3割お金のことを考えるようになっただけで、あの23歳の頃の想いは基本的には変わっていなかったのです。

  そしてその想いが結実して2009年にGOOMOを設立し、ネットで独自のバラエティ番組を毎日じゃんじゃん作り、ウェブの海に意気揚揚と漕ぎ出したのですが、開始当初はこの新たなネットビジネスがうまくいったら、幕末には開国派が江戸幕府を潰したように、テレビ界をぶっ潰してしまうような倒幕運動になるのではないかと要らぬ心配をしたりもしたのです。しかし1年もすると、それはやっぱり要らぬ心配で、和魂洋才とは昔も今もよく言ったもので、テレビ番組のノウハウという「魂」をネットという「才」で使ってみたところで、なかなかビジネスにはならないことをまざまざと痛感させられたのが2011年前後のことでした。

 「不惑」などと言われるのに、自分は惑ってばかりだなと自虐的な気分で40歳を迎えたのです。
そして、花粉症と肩こりがひどい春のある日、会社をちょっと抜け出して15時にマッサージを予約して、20分前くらいに局舎ビルを外に出て歩いていると、不気味にざわめくのでふと空を見上げました。すると、大量のカラスがとぐろを巻いていて、これはなんなのだと驚く間もなく、足の下の地の底から巨大な振動が襲ってきたのです。

 

 2011年3月11日14時46分、その時からテレビは東北の火事と津波の惨状を夜通し映し続け、そして次の日テレビ映像はいつしか原発がクラッシュする映像に切り替わり、バラエティ番組は吹っ飛びました。あまりにも多大な被害で、その悲しみは言葉になりません。僕は、東京にいて被害もなく、そんな僕がこの震災を語るのは大変おこがましいことかもしれません。でもそんな僕にも、些細な影響があったのです 。

 翌々日の日曜日に、僕らは当時制作していた「あいまいナ!」という世の中のあいまいなこと(例えば、「太麺と細麺の境界線は?」とか「徳永英明さんのヒット曲『壊れかけのRadio』は壊れてるの? 壊れてないの?」など)を検証するそれこそ“くだらない”番組でアンタッチャブルのザキヤマ(山崎弘也)さんやタレントの矢口真里さんたちと浅草で他愛もないぶらりグルメロケを予定していたのです。しかし前日の夜になって会社からロケ撮影中止のお達しが来ました。「そんなふざけたこと、やってる場合じゃない!」と言われた気がしました。

  そしてそう言われて入社直前の学生時代の卒業旅行での、「もし戦争になったらいらないって言われる職業こそ、真の文化を作るのだ!」と生意気に反論したことがフラッシュバックしてきたのです、それは実際は、“戦争”でではなくて“地震”だったけれども、バラエティ番組を作るこの自分の職業が、いざ実際にいらないと言われる状況になってみると、そのあまりの事実に愕然となったのです。

  その瞬間、僕は気付いたのです。

  今までは華やかなテレビの箱の中でカルチャーの“波”の上を上手に波乗りして、波と戯れたり戦い挑んだりしながらやって来たのでした。しかし今、波乗りできないほどの巨大な津波が現実に襲って来たとき、むしろその津波と戦わずに逃げたっていいのではないだろうか?

  逃げて逃げて、そしてまたどこかで生きる。僕が目指したバラエティというのは、テレビの中だけで波乗りするような閉じた世界の娯楽ではなくて、テレビの枠や囲いやフレームは関係なく、もっといろいろの、それこそリアルな人生すべての、すべてのリアルな世界の、あらゆる楽しさや喜びやおかしみや温かさを総動員して、駆使して、それが広まって、それをみんなが楽しんで、世界がぱーっと明るくなるような、そんな世界を目いっぱい生きることなんじゃないのだろうか?

 テレビを飛び出して、ネットも飛び抜けて、リアルにバラエティな人生を生きることこそが、僕がやるべき使命なんじゃないか?


 こうして、僕は自分のやるべきことが突如見えた気がして、テレビの箱から抜け出そうと再出発したのです。そしてさまざまなことをテレビ番組のフレームを超えてバラエティにやり始めました。「オトナの!」を開始したのは翌年の2012年です。 

 《『成功の神はネガティブな狩人に降臨するーバラエティ的企画術』より 第5章21.人生の「勝負ときっかけ」を逃さない》


角田陽一郎 Kakuta Yoichiro Official Site [DIVERSE]

バラエティプロデューサー/文化資源学研究者(東大D2)/ 著書:小説『AP』『仕事人生あんちょこ辞典』『最速で身につく世界史/日本史』『天才になる方法』『読書をプロデュース』『人生が変わるすごい地理』『出世のススメ』『運の技術』『究極の人間関係分析学カテゴライズド』他/映画「げんげ」監督/水道橋博士のメルマ旬報/週プレ連載中/メルマガDIVERSE

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