野田秀樹さんの篠山紀信さんへの弔辞が素晴らしい。
天才が天才にだからこそ献げられる御言葉。
「まるで獲物を狙う獣の姿」野田秀樹が目撃した「篠山紀信」という人の力(FRaU編集部) /FRaU/2024.12.04より
野田さんにとって篠山紀信さんはどんな存在だったのか。2024年12月3日にホテルオークラ東京にて開催された「篠山紀信先生を偲ぶ会」で野田秀樹さんが贈った弔辞を全文掲載する。
野田秀樹さんの弔辞全文
篠山さん。このお別れのコトバを書くために中野の新井薬師商店街でJAZZがガンガンかかるカフェに入って、よし書くぞと。パソコンを開いたら、店の人が飛んできて、「この店はパソコンを使えないんですよ、お店を出られますか?」と言われたので、パソコンはやめてこの和紙に今、ぶっつけで書き始めました。ミスは許されません。大変なプレッシャーです。
「これ、あんたのエッセイじゃないんだから、余計な事言わないで、さっさと私のことを褒めなさいよ」という篠山さんの声が聞こえてきます。その声に従います。褒めます。でも最初は意表をついて、私が篠山さんに褒められた話から始めます。
私が30代の初め、篠山さんが私の芝居を見た帰りしなに楽屋で、篠山さんから「あなたは溢れかえる才能を毎朝、バケツですくって捨ててるでしょう」という私の人生で最大の賛辞をいただきました。ただ、だいぶたって、その話をしたら篠山さんは、全く覚えていませんでした。私は、「あの篠山紀信に褒められた!」と半年くらいは浮かれて生きたというのに、ひどい人です。
実際篠山さんは人をのせるのが上手で、のせた割には深追いしない。恋愛の達人のような方でした。それは撮影現場でもそうでした。決して人を緊張させず意識させずにいつの間にか思いもかけないものを撮ってくれました。
私が歌舞伎座で、18代目中村勘三郎と創った歌舞伎を撮っていただいた時もそうでした。ふつう舞台写真は、芝居中の写真が主ですが、篠山さんは、歌舞伎座の客席で私が勘三郎にダメ出しをしている瞬間をとらえていました。そのダメ出しを聞く他の役者たちの実に嬉しそうな顔、それは今まで中村勘三郎という稀代の名優が他人から人前でダメ出しを受けるなどとゆうことは、ありませんでしたので「やられてるぞ〜勘三郎が〜」と皆、嬉々として微笑みを浮かべている、そして勘三郎ひとり苦笑いをしている。その瞬間を篠山さんも間違いなく嬉々としてとらえたのです。あの時、私も勘三郎も撮られていることを知りません。以来、どうやって、ああいう瞬間が撮れるのか、私はしばしば篠山さんの撮る姿を観察するようになりました。
そしてある日遂に、篠山さんが気配を消して、被写体のそばにまるで写真など撮る気がないように、わざと被写体に背中を見せながら近づいていく姿を見つけました。それは、獲物を狙う獣の姿でした。そして、やをら、振り向きざまにカメラを構え、さっと撮り、その場から立ち去るのでした。なんて人でしょう。あとで篠山さんにあの技、凄いねと言ったら、「本気を出せば私フライデイもやれちゃうのよ」と嬉しそうに話をしていました。
「あの被写体の懐に飛び込んで写真を撮るのは、はじめからなの?」と聞いたら、巨匠篠山紀信は「いやあれは、若い時、リオのカーニバルを撮ったときに悟ったのよ。外からカーニバルを見ながら撮っても全然ダメで、だからもうこれは、中に入るしかないと思って自棄で飛びこんだのよ、そしたらいい写真が撮れちゃったのよ」と。という事はです。篠山さんは、若き日、そのリオのカーニバルで、サンバに合わせててんとう虫のように踊りながら撮りまくった。その篠山さんの姿、妙にリアルです。合点がいきます。
というのも、私の舞台の写真もずっと撮っていただいておりましたが、あるゲネプロ、本番さながらの重要な通し稽古、そこで演出席に座っていた私が、今まで見たことのない景色を見たのでした。それは怪談話では、ないのですが、舞台上の出演者が1人多いのです。え? なんで1人多いの? とじっくり舞台上を見たら、見覚えのあるあのシルエット、夢中で写真を撮っている篠山紀信の姿でした。きっとその時、篠山さんは、そこにリオのカーニバルを感じ、吸い込まれるように舞台上に上がり込んでしまったのです。勝手に。私は、それ以降、稽古場は勿論、舞台稽古、ゲネプロ、本番以外は、篠山さんが舞台に上がりたくなった時は、止めることなく写真を撮ってもらいました。
おかげで見たことのないような舞台写真を次々と撮っていただきました。
例えば、松たか子が流した涙。それは演出家でさえでも、気がつかなかった、いつ流したのかわからない、頬を伝うひと筋の涙でした。また、広瀬すずが、本人でさえも、「これ、あたしなんですか?」と気がつかなかった、そんな、稽古場で、集中をした時の表情をとらえたものもありました。それらは、時の流れに負けて休刊したアサヒカメラの最後の表紙を飾りました。篠山さんは「そうなの、なくなっちゃうんだよね」と休刊していく写真誌のことを、写真という一瞬をとらえる芸術の宿命に重ねて話してくれました。そしてこれからの写真の未来についても、冗談交じりに憂えていました。私は私で、本来残ることなく消え去るのが芝居の宿命なのに、写真という一瞬の芸術のおかげで、残る、残ってしまう皮肉を伝えました。お寿司屋さんでした。篠山さんが奢ってくれました。
丁度12年前、2012年の12月に18代目中村勘三郎の葬儀が築地本願寺でありました。葬儀前に、篠山さんとその本堂の高見から、途絶えることがなく延々と続く、葬儀を待つ夥しい数の人々の行列を見て、篠山さんが発した言葉を覚えています。
「野田、見なさいよ、これが千両役者が死んだってことなのよ」
あの時、篠山さんが、カメラを持っていたか、覚えてないのですが或いは只、心に刻んだだけのコトバだったのかもしれません。でも、篠山さんはいつもああして、「カメラを持つ手」と一緒にこの世界を見ていたと思います。
そう感じたのが、その前年に起こった東日本大震災の時でした。私はあの震災が起こった直後に稽古場で篠山さんに「もう東北に行って写真撮ったの?」と聞きました。実は私は、その頃、各分野の表現者たちがブームのように皆、「東北頑張れ!」と言って被災地に励ましに行く姿を見て、違和感を覚えていました。篠山さんは「あたしも行ってないのよ、なんだかねえ」と。
ところが、それから1年もすると、「東北を撮ってきたのよ」「えー、なんだよ行ったのかい」と驚く私に「それがね、言葉にして言っちゃうと違う意味になっちゃうけど、吃驚するほど美しい写真が撮れたのよ」そして見せてくれた写真、それは、海岸に津波で積み上げられた「モノと樹木の幾何学模様」にも見える1枚でした。その写真には、津波とその甚大な被害、被災者、その事実を記録することなど到底、ひとりの写真家にできるわけがない。むしろ、美しい写真の中にこそ、深い悲しみや鎮魂が込められている。のだとでも、語っている1枚。
きっと篠山さんの「カメラの持つ手」は、そんなことも考えず、その津波で積み上げられたモノの姿に惹かれてシャッターを押しただけに違いない。でもそこにこそ、表現者、篠山紀信の真骨頂があるのだと感じ入りました。
篠山さん、私の家族の写真も撮っていただきましたね。それは七五三さんの写真で、宮沢りえの長女さんと私の長女が、10日違いの生まれだということもあって最初の3歳の七五三の写真を、巨匠にお願いしようとなり、そういう図々しいことは、宮沢さんの方からお願いしてもらいました。ところが私は、その後もボロボロ子供作って息子1人、娘3人計4人の子供の七五三をほぼ毎年のように撮っていただきました。
うちの子供たちは、父親である私の悪い血が流れていて、撮影スタジオで必要以上に動き回り、スタジオ奥の湾曲した壁を登りたがるので、周りは騒然、ところが篠山さんだけは「私はあまり子供を撮ってきてないから面白いね」と言いながら、動き回る子供に合わせて、リオのカーニバルの精神で撮りまくってくれました。3歳だった次女が壁を駆け上がろうとして、スタジオ中の大人から止められた時に、篠山さんが「こっち向いて!」と声を掛け、振り向いた瞬間を撮った、その写真は、今でもプライベイトな宝物です。心残りは、末の7歳の七五三だけ、撮ってもらえないことです。
「さあ、プライベイトな話が始まったら、そろそろ終わりにしていいんじゃないの?」という、篠山さんの声が聞こえてきます。でも、あと1枚の写真についてだけ話をさせて下さい。
2022年の3月の朝、篠山さんからいきなり電話がかかってきました。「野田さん、今朝の読売新聞、見た?」私は、すぐにピンと来ました。私のフェイクスピアという芝居が、読売演劇大賞を受賞した。そのことだろう。確かにその件ではあったのですが、中身は少し違いました。「それがさあ、いい写真なのよ。あんな写真はふつう撮れませんよ」受賞報じると同時に載せられた篠山さんが撮った舞台写真の話でした。「他の受賞作の写真はさ、言っちゃなんだけど、全部止まっちゃってて役者紹介だもの。ま、それもいいけど」と付け足しのフォローをしながら、「でも、うちのはさあ、もう勢いというものがあるでしょう。こんなの誰も撮れないよ」
本当にそれは、舞台に吸い込まれ舞台に上がって行く篠山さんでなければ、撮れない写真でした。まさに湾曲した巨大な壁のような舞台装置でその急勾配の壁を高橋一生をはじめとした、20人近い役者が、駒つきの回転する椅子に座ったまま、滑り落ちてくる。飛行機が墜落する場面でした。篠山さんは、舞台上にまで上がり、見事にその緊迫する瞬間を切り取っていました。写真は止まっているのに、あれほど躍動している瞬間をとらえている舞台写真はないのではないか。その中で飛行機の機長役の高橋一生の表情には、死の間際にありながら最後まであきらめない、生きる意志が籠められていました。
私は、その写真を見て、いつものように「篠山さん、写真、けっこう上手いんじゃない?」と茶化すと「そうなのよ。私、意外に上手いのよ」と褒められて満更でもなさそうでした。そう、篠山さんの写真はもっともっと褒められるべきだと思います。篠山さんの飄々とした生き方に、篠山さんの写真の奥深さが見落とされている気がしてなりません。
「もういいのよ。そのくらい言ってくれたら、私は好きで写真を撮っていただけだから」篠山さんの最後の声が聞こえてきます。
極楽へ行った篠山さん。え? 誰が極楽に行ったって決めたのよ、という篠山さんの声も聞こえてきますが、きっと今頃、お釈迦様のそばに、背中を向けて近づいて油断させたところを、振り向きざまにシャッターを押しているのではないでしょうか。そしてその釈迦様の写真を、今度私に見せる時、「野田、お釈迦様って結構、普通なのよ」と言うに決まっています。そのお釈迦様のそばで一応、普通に、安らかに成仏していて下さい。
花に嵐のたとえもあるさ、さよならだけが人生だ。
さよなら、篠山さん。
令和6年12月3日、篠山さん84歳になるはずだった誕生日に。
野田秀樹
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