リアルと仮想が曖昧な世界

なんかいろんな価値観が急速に変わってきてるの今年になって特に実感する。それは時代なのか環境なのか社会なのか自分自身なのか。多分全部が一度に変わってきてる。どこに軸足を置いてもその軸自体も変化するから本当に捉えるのが難しい。むしろどこにも軸を置かないで変化し続けるということか。

すごくふわふわしてる。

そうか、ネット空間というものができて、それまではテレビの中とか映画の中とか舞台の上とかしかなかったフィクションというか不条理な世界が、今や社会や政治や個人個人の日常に浸食してきてるんだ。

社会や政治や個人個人の日常がフィクション的で不条理なものになってもそれは既視感でしかないんだ。

時々想う。日々生活してる街が、仕事が、生活が、ディズニーランドの中のアトラクションなんじゃないかって。

それって僕がテレビというエンタメ作り物の世界で生きてるからだと思ってたけど、ネット社会というのの登場で全ての人の人生の中で実体とアトラクションの境界線が曖昧になってるんだと思う。

例えばもうテレビの中のことの文句を外側から言ってる段階じゃないんだと思う、この世界は。

つまり全ての人の人生そのものがテレビの中に組み込まれてる。
それはネットしかり他のマスコミも同様に。
全ての個々人の人生がネットに絡まれて見世物でありアトラクションになってしまってる、嫌が応にも。

例えば人は、自分に関係ない、自分の向こう側にいる人を糾弾しがちだ。エライ政治家とか、テレビの中の人とか、タレントさんとかとか、他国の人とか。その人たちはどんな激しい言葉を言われても耐えられると勘違いしてる。あなたが傷つくくらい相手も傷つくと、向こう側の人が自分と同じリアルなこちら側の人なんだと想像できるか?

これからは本当の意味で想像力の時代が来ると思う。自分が想像できる範囲を拡げる。膨大なデータの処理とそこからの最適解はAIがどうせやってくれるから、むしろ正しいことを激しい言葉で相手に言うだけじゃなく、相手の最適じゃない解も含めて、想定外のことをどう想像し、許容し、対処できるか?

そんなリアルと仮想が曖昧な世界で日々生きてる中での、自分の欺瞞さとペテンさを恥じつつ悔やみつつ、でも一流の欺瞞さとペテンさを持ってる人たちにははるかに至ってない未熟さに、その中途半端さにただただ落ち込むばかりの夜だ。
アトラクションな世界でアトラクションに成れない自分。
アトラクションな世界でアトラクションに慣れない自分。
リアルにもペテンにも、どっちにもなれない自分。

角田陽一郎 Kakuta Yoichiro Official Site [DIVERSE]

バラエティプロデューサー/文化資源学研究者(東大D2)/ 著書:小説『AP』『仕事人生あんちょこ辞典』『最速で身につく世界史/日本史』『天才になる方法』『読書をプロデュース』『人生が変わるすごい地理』『出世のススメ』『運の技術』『究極の人間関係分析学カテゴライズド』他/映画「げんげ」監督/水道橋博士のメルマ旬報/週プレ連載中/メルマガDIVERSE

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