赤瀬川源平さんがお亡くなりになった2014年の最後の個展を見に行った時に買った本。
読んでみた。
めちゃめちゃおもしろかった。
千利休は前衛である。では前衛とは何か?芸術とは?
極小の世界をめざした利休が、その利休を僕たちが考えるとき、無限大の大きさを感じさせてしまう、おもしろさ。
それが前衛なんだと思った。
赤瀬川さんが、教えてくれる。
そもそもお茶という芸術は言葉で説明できない。いや、そもそもいまは芸術という概念的な言葉があるから便利だけど、これは少なくとも明治以降のことであって、利休の時代には芸術なんて言葉はなかったのである。
千利休は、そのような無口な世界で能弁であったと思う。だからこそ人々の心に直かに焼きつき、また一方で口達者な秀吉のコンプレックスを増大させた。
無口な世界とおしゃべりな世界、両者はつねに押し合いへし合いながら、その盛衰記をあらわしてきている。世の中は、あるところで無口が隆盛し、あるところではおしゃべりが支配している。いまここがどんな世の中であるのか、それは耳を澄ませばわかることだ。 《p17 序 お茶の入り口》
韓国語のテキストがあり、・・・その中で「激音」「濃音」というのが目を引いた。
韓国語は力のいる言葉である。言葉は力だと教えられているようだ。
考えたら日本にはこの手の腹の底からの声、喉の奥で発する発音というのは存在しない。ほとんどが口腔前部での、いわゆる口先だけの言葉がほとんどである。
何だかイメージが悪いが仕方がない。日本では茶の湯でもそうだし、俳句でもそうだし、ほんのわずかなもので多くを語ろうとしたがる民族なのだ。発音もおのずからその作法にのっとっているのかもしれない。 《p149 Ⅱ 利休の足跡》
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