飛行機に乗って、入国審査やって、荷物を受け取って、ゲートを出ると、ヨーロッパの異国に着く。
知らない国だと、そこからどうやって街まで出るかもわからない。いや概念的にはわかるけど、諸処とした細かいところがわからないのだ。バスに乗るにもチケットどこで買えばいいのか?タクシー乗るでも言葉が通じないからどう説明すればいいのか?そんな些細なこと、日本では何も気にしてないことを、異様に気にしなければならない。当然スリにも気をつけなきゃ行けないし、なんならテロにも気をつけなきゃ行けない(どう気をつければよいのだ!?)
でもそれが、異国を訪れるということの意味なのだ。
トラムで街まで行くことにする。券売機でチケットを買う。カードを入れて暗唱番号を入力するけど、どこが確定ボタンかわからなかったりする。確定ボタンを押しても、このカードは使えませんと出たりもする(正確に言えば、そんな意味の異国語が出たと推測してるだけだけど)、でもそれが、暗証番号の入力ミスなのか?、そもそもカードの限度額オーバーなのか?、確定ボタンを押し間違えたのか?それすらもわからない。係員が丁寧に側で教えてくれたりするけど、どの理由でこのカードが使えないかがわらからない、とも説明できない。つまりそれが異国を訪れるということの意味なのだ。
なんとかトラムに乗って、国鉄駅のトラム駅で降り(降りる際にはドアのボタンを押すらしい)、駅前のビジネスホテルになんとか着き、2階という名の3階の部屋に着く。部屋の中は空気が籠っていて、その独特の匂いでここが日本でないことを実感させられて、寒いけど窓を開けて空気を入れ替える。頭がボーッとする、それはここが異国だからか、時差ボケでなのか、飛行機の中で映画を見過ぎだからかはわからないけど。
お腹が空いたので、街に出て、レストランは閉まってるみたいで、キオスク(この国ではタバクという)でパンを買おうとするけど、ショーウィンドウのどのパンを指すとどれが買えるのかがよくわからない。だから店員が近くにいないショーウィンドウのパンは買えない。だから店員が近くにいるところのショーウィンドウから仕方なく消去法でパンを選んで指差してパンを買う。ついでにコーヒーも頼んだけど、お金を払ってパンを手渡されて、待っててもコーヒーはなかなかもらえない。仕方ないのでレシートをさっきの店員に見せると、今気づいたかのように(というか多分本当に今気づいたのだ)ようやくコーヒーが出てきた。それを持って帰ってホテルの部屋でパンを食べる。パンは硬いんだけど、すごく美味しいのだ。20年くらい前に来た時も、そうだった。パンは硬いんだけど美味しい。日本より美味しい。きっとパンが主食の国だからだ。そんなことでも異国にいるんだと感じる。
時差ボケ少なくするために、飛行機ではほとんど寝てなかったから、すごく眠い、寝る。でも眠いのに、なかなか寝つけない。でも疲れてるからいつの間に寝てしまう。その感覚が不思議だ、寝ているような眠り込んでいないような。
移動は疲れる。でも座ってるだけなのに、移動は疲れる。なぜ座ってるだけなのに疲れるのだろう?人は時には疲れを取るために座ったりもするのに、とか子供の頃から飛行機に乗るといつも思っていた。空間を移動することは疲れるのだ、例え自分がそれを意識してなくても、だとしたら地球が動いてることで人は疲れないのだろうか?とかなんとか考えながらベットで横たわってるとよくやく寝てしまう。
翌朝、起きてシャワーを浴びる。寝てる間にシーツのような薄い掛け布団で寝たためか冷たくなった身体に、調整の難しいバルブをなんとか微妙に操作してようやく熱くなったシャワーを頭から浴びると、すごく気持ち良い。ボワーっとした頭が徐々に復活してくる。熱いお湯がまさに身体を復活させてくれる、カップ焼きそばにお湯をかけて戻してるみたいに。
頭がシャキッとした。シャキッとしたらしたで、やっぱり眠たい。それが時差ボケなのだ。でも日本にいるときの花粉症の頭痛とは違う。この頭の痛さの違いから、僕は異国にいるんだと、ふたたび実感する。
つまりこれらが、この僅かながらも些細な、でも確かに確実に感じる普段と異なった感覚、それを身体が実際に受け持つこと、それが異国を訪れるということの意味なのだ。
とかなんとか他愛のない文章を時差ボケで目が覚めた朝の5時過ぎにiPhoneで寝転がりながら書いてるのも、そんな気にさせられるのも、それがまさに異国を訪れるということの意味なのだ。
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