神は、忌わの際になっても何も語ってくれない、救ってくれはしない、そんなときでも沈黙のまま。
うん、多分そうだ。そんなもんなんだ。
ってなんか妙に納得したのだった。
きっといろんな宗教がとなえる神様というのは、多かれ少なかれ自分の人間としての欲望の投影で創られた存在で、本来この宇宙に存在する根本的な神とは違う、、、的な、なんていうか神を脱宗教的な存在として考えるようになったのだ。
遠藤の作品をいくつも読んで、どの作品でも描かれる、途方も無い信仰のやるせなさに、宗教家・遠藤周作の日本人としての挫折感に、僕はひどく共感したんだと思う。
そして、映画を観終わって思ったのは、
僕が小説を読んだ時に受け取った“沈黙”と、今日映画を観た時に受け取った“沈黙”は違っていたのだった。
映画では、沈黙は、“棄教者の沈黙”だった。
それは神=沈黙への絶望を意味するし、その絶望に僕はかなり影響を受けて、その後の人生を歩んでいる。
あるいは1980年代のイケイケの時代が僕に気付かさなかったのかも。
あるいは青春真っ盛りな僕には、その希望が微かすぎて、まだ見えなかったのかも。
そして2017年の今、だんだん不確かになる世界で、いろんな制約がまるでこの《沈黙》の時代に重なるかのような、生きづらくなる社会で、
そして希望をまもるための沈黙があることを。
歳食った僕に教えてくれたのかもしれない。
沈黙に絶望するのではなく、希望のための沈黙へ。
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