"絶望"の沈黙から"希望"の沈黙へ:『沈黙-Silence-』

マーティン・スコセッシ監督の『沈黙』を観た。

遠藤周作が好きで、好きになったのは高校の頃、予備校の現国の試験で出た文章がすごく印象的で、出典を見たら『海と毒薬』とあった。そして読んでみて、ものすごい衝撃を受ける。
そして次に読んだのが、この『沈黙』。
この作品を高校時代に読んだことで、僕の人生にどれだけの影響を与えられただろう。

神は、忌わの際になっても何も語ってくれない、救ってくれはしない、そんなときでも沈黙のまま。

なぜそんな苦しい時に、神は沈黙するのか?
普段敬虔に信仰してるのだ、その時くらいは神の御言葉があってもいいんじゃないか。
でも僕は『沈黙』を読んで、

うん、多分そうだ。そんなもんなんだ。

ってなんか妙に納得したのだった。

そして僕は神を信じなくなったのだ。何をやるのも自分次第なんだって。そこに(一神教でも、多神教でも)神の御心は介入しないんだって。


でも一方で神という存在に惹かれてもいるのだ。

きっといろんな宗教がとなえる神様というのは、多かれ少なかれ自分の人間としての欲望の投影で創られた存在で、本来この宇宙に存在する根本的な神とは違う、、、的な、なんていうか神を脱宗教的な存在として考えるようになったのだ。


その想いは、今も根本では変わっていない(と思う)。

遠藤の作品をいくつも読んで、どの作品でも描かれる、途方も無い信仰のやるせなさに、宗教家・遠藤周作の日本人としての挫折感に、僕はひどく共感したんだと思う。


そんなイメージがずっと頭にこびりつき、こびりついたままこの映画を今日観た。小説を読んだのは30年も前だ。こびりついたイメージで、細部は忘れてしまっている。

そして、映画を観終わって思ったのは、

僕が小説を読んだ時に受け取った“沈黙”と、今日映画を観た時に受け取った“沈黙”は違っていたのだった。


小説では、沈黙は、“神の沈黙”だった。

映画では、沈黙は、“棄教者の沈黙”だった。


繰り返し言うけど、遠藤の小説はだいぶ前に読んだから、僕が忘れてしまってるだけかもしれない。ちゃんと“棄教者の沈黙”も小説でも描かれていたのだろう。でも僕にはその印象がないのだ。
“神の沈黙”に絶望して、宗教を捨てた神父という印象しかない。

それは神=沈黙への絶望を意味するし、その絶望に僕はかなり影響を受けて、その後の人生を歩んでいる。


でも今日見たスコセッシの映画は、沈黙は宗教を捨てないための沈黙だった。それは“絶望”じゃなくて、微かだけど“希望”だ。希望を捨てないために神父は死ぬまで(死んでも)沈黙し続けたのだ。

そっか、沈黙は希望のためだったのか。
高校時代の僕には分からなかったのかもしれない。その絶望が大きすぎて。

あるいは1980年代のイケイケの時代が僕に気付かさなかったのかも。

あるいは青春真っ盛りな僕には、その希望が微かすぎて、まだ見えなかったのかも。


そして2017年の今、だんだん不確かになる世界で、いろんな制約がまるでこの《沈黙》の時代に重なるかのような、生きづらくなる社会で、

希望のために転んだっていいんだ、と。

そして希望をまもるための沈黙があることを。

歳食った僕に教えてくれたのかもしれない。


沈黙に絶望するのではなく、希望のための沈黙へ。


角田陽一郎 Kakuta Yoichiro Official Site [DIVERSE]

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バラエティプロデューサー/文化資源学研究者(東大D2)/ 著書:小説『AP』『仕事人生あんちょこ辞典』『最速で身につく世界史/日本史』『天才になる方法』『読書をプロデュース』『人生が変わるすごい地理』『出世のススメ』『運の技術』『究極の人間関係分析学カテゴライズド』他/映画「げんげ」監督/水道橋博士のメルマ旬報/週プレ連載中/メルマガDIVERSE

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