『北海道の諸道』:司馬遼太郎 街道をゆく15


日本列島は、いわゆる縄文期の終了までは、多様な生活文化が、同時に並存していたであろう。現代風にいえば多民族社会であった。もしただ一個の条件−イネの到来−さえなければ、多民族の同居地域として、こんにちとはちがった別種の発達史を持ったのではないかと思われる。

それほど、イネの到来はこの四つの島の古代的多様社会に、大きくローラーをかけて一つの文化に地均ししてしまうほどに、強烈であった。

古代的状態のなかで、イネがどれほど多数の人口を養えるかということについては、驚くべきものがあった。北アジアでの半乾燥地帯や中近東での遊牧方式が養える人口などたかが知れていたし、ヨーロッパの小麦も、播いたたねの二倍か三獲れる程度でたいしたことはなかった。コメは一粒万倍というのは一つの表現であるとしても、ともかくすばらしいものであった。あるいは当時、一神教の神がコメとやってきて、神かコメかどちらかを選択せよといったとしても、ひとびとは神を選ぶよりもコメを選んだのではないか。《p18 道南の風雲》


和人が「ワタリ」として多数道南に移住するようになった鎌倉・室町以来、一度も北方の冬をしのげるような建物や装置を考え出したことがなく、本土の南方建築で間に合わせてきたというのは、驚嘆すべき文化といっていい。

奥羽そのものが、冬の建築をもっていなかった。木造の建築の囲炉裏に薪を燻べ、その煙を屋内に充満させるだけで冬をしのいできた。

ロシア人は厚い壁の一部に暖炉を仕込んだペーチカを用いてきた。床をあたためる炕(オンドル)も壁をあたためるペーチカも、ヨコとタテのちがいだけで、原理は同じといっていい。

かつての奥羽のひとびとや道南の和人たちが、この北方の炕(オンドル)をなぜとりいれなかったか、ふしぎでならない。

ー奥羽や道南では、日本の他の文化と、家屋そのものからしてちがっている。というふうには見られたくないという意識ー逆にいえば中央と均一化したがる意識ーがこれをはばんできたのではないか。日本には、本格的な意味で独自な地方文化が育ったためしがないということは、この一事でもわかるような気がする。《p32 道南の風雲》


フォストフの「事業」(北海におけるフォストフ大尉の暴行)は日本と接触のあったいかなるロシア人よりも日本に深刻な影響をあたえた。

幕末における日本人の外患意識をこの事件ほど高めたものはなく、この事件がなければ半世紀のちに艦隊をひきいてアメリカからやってくるペリー衝撃も、ちがったかたちになったのではないかと思える。

 むろん、国民国家の成立への刺激にはなったのだが、明治以後、日本のある種の気質がフォストフ的行為を愛国行為だと思い、フォストフ以上の真似をアジアに対しておこなったのも、フォストフ刺激が潜在化していたあらわれといえなくもない。

日本人のロシアぎらいはすでに幕末にできあがっており、その後、意識としてそれを継承してきた。右翼的はねっかえり行為というものが、国家の内外にあたえる惨禍は洋の東西を問わないのである。《p42高田屋嘉兵衛》


高田屋嘉兵衛(1769年【明和6年】ー1827年【文政10年】)内国交易の蝦夷地における根拠地として函館を最初に見出した人物


日本の変動期というのは奇妙なもので、源平合戦のときもそうであり、関ヶ原のときもそうであったように、旧時代を背負う勢力が兵力も多く、決戦場における地の利の点でも有利であったのに、あたらしい時代を背負う兵力寡少の側に負けてきた。歴史の生命現象かと思えるが、このことを論じはじめるときりがない。《p141開陽丸の航跡》


西洋の文化は、肉体を働かせることの上に成立しているのではないか。

西洋の貴族はふつう狩猟やスポーツによって体を鍛え、たとえば狩猟で獲物を獲ると、みずからナイフをとって皮を剥ぎ、肉をとり、家庭や家来に分けてやるということもする。闘技をすれば貴族のほうが庶民より一般につよいというふうにしてかれらは肉体を鍛えた。

アジアは上級者ほど体を労せず、それをすることを思想的にも身分的感覚の上からもいやしむ。とくに儒教文明の濃厚な中国や朝鮮はそうで、・・・儒教にあっては、体を働くことは、士大夫のすべきものではなく、奴婢のするものなのである(信じがたいことかもしれないが、こんにちの新中国でもこの残映意識が共通のものとして残っているように思われる)。

江戸期の士分階級は足軽以下の者の担いだり運んだり、あるいは走ったり登ったりすることはしない。することは、身分にかかわるのである。《p154江差の風浪》


タコという言葉は、他雇から出たというが、こじつけだろう。語源がどうであれ、これらの奴隷労働者を追いつかい、逃亡をくわだてた者を殺し、役立たずになった病者を生埋めにしてきた顧傭側の感覚でいえば、かれらを呼ぶのに人間を感じさせない語感をもつことばのほうがいい。

語源の詮索よりも、タコという言葉がひろがり、定着した事情や風土のほうが重要である。

タコとよばれる奴隷制度は、明治期、太平洋戦争の敗戦まで日本の厳然と存在したものであるのに、私の手もとの国語辞典にはのっていない。タコ部屋ということばも見あたらない。《p236奴隷》


ヨーロッパや中国の古い都市は、多くは高燥の高台を卜して建てられ、城壁にかこまれて、城頭からはるかに野を見わたすことができた。

日本は逆であった。

低湿地で営む弥生式農耕の水田農村が、そのまま都市の原型になったのか、日本のふるい町のほとんどは盆地底にあり、近世に入って河口に進出したものの、これもデルタ地帯で、昔もいまも町といえば水にたえず濡れている感じである。《p247屯田兵屋》















角田陽一郎 Kakuta Yoichiro Official Site [DIVERSE]

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バラエティプロデューサー/文化資源学研究者(東大D2)/ 著書:小説『AP』『仕事人生あんちょこ辞典』『最速で身につく世界史/日本史』『天才になる方法』『読書をプロデュース』『人生が変わるすごい地理』『出世のススメ』『運の技術』『究極の人間関係分析学カテゴライズド』他/映画「げんげ」監督/水道橋博士のメルマ旬報/週プレ連載中/メルマガDIVERSE

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