マクトゥーブとエピファニーという言葉があります。
僕はこの2つの言葉を、ちょうど同じ日の2015年3月22日に知りました。
実は、僕はこの日の朝、ある小説を読み終えたところでした。ブラジルの小説家パウロ・コエーリョの『アルケミストー夢を旅した少年—』。
Maktub:マクトゥーブとはアラビア語で、直訳では「それは書かれている」という意味で、つまり起こりうる物事は既に前兆が起こっていて、それは最初からそうなるべき運命であるらしいのです。そしてあとは、その前兆にその人自身が気づくか気づかないだけの話なのです。
そしてその日の夜に食事をした友人から、たまたま勧められたある雑誌を手にしたら、その中で"エピファニー"という言葉に出会ったのです。
Epiphany:「本質の突然の顕現」「直感的な真実把握」平たく言えば、「ある日突然何かが目の前にさっと現れて、それによってものごとの様相が一変してしまう」という感じ。
僕はこの言葉をその雑誌『MONKEY Vol.5』で村上春樹さんが連載している文章で知ったのでした。(その後、村上春樹著『職業としての小説家』:所収)
僕はその瞬間確信しました。僕にもマクトゥーブは以前から現れていて、そのマクトゥーブに気付いたちょうどその日に、エピファニーという言葉と出会ったのだと。 そしてそのエピファニーという言葉を知った瞬間、僕にもエピファニーが起こりました。 「僕のやるべきことは、バラエティプロデューサーなのだ」と。 多分、誰しもの人生の中で、マクトゥーブが現れていて、もしその前兆を逃さなければ、いつかエピファニーが訪れるんだと思います。そしてそのエピファニーをキャッチすることが、人生の“きっかけ”なんだと僕には思えるのです。
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