自分のために”わがまま”に社会コミットする


「がんこ」=Aと「わがまま」=Bと「協調性がない」=Cことの違いを、昨夜つらつら考えていた。


僕がお会いしたことある天才、キングコング西野さんや、堀江貴文さん、コルクの佐渡島庸平さん、チームラボの猪子寿之さんなんて、だいたいBだ。むしろ固執しないし、協調性なんてめちゃめちゃある方々だ。

でも、これらって、社会に生きていると、よく他人を批判するときに使われる言葉だし、だいたい同じシチュエーションで混同して用いられるのだけど、、、なんか、ニュアンスが違うと思って。


僕は小学生の低学年の頃から、「協調性がない」って通信簿に書かれていた。

それを見て、両親に、「協調性を持ちなさい」って注意された。

僕は聞いてみた、協調性って何?

「他人と合わせなさい」とかなんとか、言われた気がする。

他人と合わせないと、社会が進まないから、うん、確かにもっともだとも思った。

そのときから、中学、高校、大学と、なんとなく協調性を意識してきたし、それは会社に入って、一番気にして生きてきたとも思う。じゃないと、番組なんて毎週毎週作れないから。でも、やっぱり、協調性はないけども(笑)。

というのも、他人と合わせるのって、

「他人と共存する社会や組織が良くなるため」なんだと思うんだけど、仮に、他人の大部分が信じて活動していることが、自分で考えてみて、

「ちょっと違うんじゃないかな、」

とか感じてしまったときに、その他人の考えや行動に、協調するってのは、そもそも意味があるんだろうか?


例えば、自分の考え方=Xを無理に押し通すと、周りからがんこ《A》やわがまま《B》や協調性がない《C》だと思われるけど、実は結構差がある。

僕はXだと思っても人の考え=Yの方が良かったら、すかさずYに変えるから、Aではないし、その判断にCは、結局ほとんど影響しない。てことは僕は、Bが強い、わがままな人間なのだ。

でも自分の中では、自分のためもあるけど、むしろ社会や組織や未来のことも考えて、XとYをどちらが良いか選んでるだけだから、Bでいいと思うのだけれど、世間や組織はCでないこと=協調性を一番求める。それもあまり吟味せず。

皆、変化を恐れてがんこ《A》になったり他者に合わせて協調性がない《C》を恐れるのでなく、個々がわがまま《B》で、あとは最良の選択を自分自身がしあえば、良い社会になるのではないか


自分の考えに変に意固地に固執するのががんこ《A》で、逆に《C》の協調性意識しすぎだと社会や組織と揉めたり自分が殺される。

自分の内部状況や周りの外部状況など変なバイアスをかけずに、自分の中で、《B》のわがままに、何が最良で気持ちいいかを考えることが、結局自分も社会もいい方向に行くのでないか。


社会が良くなることは「自分のため」。

だから、社会が良くなることを「わがまま」にする、でいい気がする。

一人一人がそう思えば、社会が良くなる気がする。

「他人のために良い社会にしましょう!」はいいことだけど漠然すぎて荷が重いから。

一人一人の「わがまま」の違いを認めた上で、行動する。


そんな社会の中でこそ個人の利益も最大化する。

自分がよくなるためには、

例えば、選挙に行くこと。 

例えば、書店に行って本を買ってみること。

例えば、トイレットペーパーが切れたら変えておくこと。 

例えば、何かのレッスン中「質問ありますか?」って講師が言ったら、質問してみること。


これはあくまで僕の仮説ですが。

角田陽一郎 Kakuta Yoichiro Official Site [DIVERSE]

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バラエティプロデューサー/文化資源学研究者(東大D2)/ 著書:小説『AP』『仕事人生あんちょこ辞典』『最速で身につく世界史/日本史』『天才になる方法』『読書をプロデュース』『人生が変わるすごい地理』『出世のススメ』『運の技術』『究極の人間関係分析学カテゴライズド』他/映画「げんげ」監督/水道橋博士のメルマ旬報/週プレ連載中/メルマガDIVERSE

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