東京画廊の山本豊津とバラエティプロデューサーのカクタ教授のアートを巡る知のライブトーク
比田井南谷は日本の前衛書家で、伝統的な文字を離れ、読むことのできない書を数多く制作しました。その作品は書芸術のみならず、戦後日本の芸術全般に大きな衝撃を与えたことが知られています。近年では、M+に作品がコレクションされ、同館のオープニング展「Individuals, Networks, Expressions」に展示された4.63 x 3.5mの超大作<Work>(1964年)は大きな話題となりました。本展では1950~60年代の作品を中心に展示し、比田井の「線の芸術」が国内外に与えた影響と、その歴史的重要性を照らし出します。
比田井南谷(1912~1999)は、「現代書道の父」とよばれる書家・比田井天来と仮名書家・比田井小琴を父母として、神奈川県鎌倉に生まれました。書学院所蔵の碑法帖に囲まれて育った南谷は徹底して古典書法を学びますが、書の可能性を模索するうちに、文字性を放棄し、「心線」の表現へと到達します。<心線第一・電のバリエーション>(1945年、千葉市美術館所蔵)は、父・天来の「行き詰まったら古に還れ」という言葉に従い、古文の古籀彙篇の「電」の文字から発想を得て生まれました。同時代の書家や洋画家に大きな衝撃を与えたこの作品は、書であるか否かという議論を引き起こしましたが、南谷の率いた前衛書運動はやがて現代書芸術に一時代を画することになります。
比田井によれば、書の芸術的本質は鍛錬された線に宿ります。伝統を逸脱したかのような、多様なマチエールを探求した実験的作品も、彼が生涯保ったこの信念に裏打ちされています。紙ではなくキャンバス、板、ファイバーボード、墨ではなく油彩、ラッカーなどを用い、ときには油絵具を塗った板を筆ではなく竹片やタイヤの切れ端で引っ掻くように書いたのも、素材に対する書線の優位を証明するためであったと考えられます。
比田井の作品は海外でも反響を呼びました。1959年11月、サンフランシスコのルドルフ・シェーファー図案学校に招聘され初渡米。ニューヨーク、サンフランシスコ、ワシントンにおける個展の開催、20校にも上る大学での書道史の講演、芸術家に対する書の指導など、書芸術の海外普及に全力を注ぎました。1964年にはニューヨークでクルト・ゾンダーボルグ(1923-2008)、ピエール・アレシンスキー (1927-)、ワラス・ティン (1929-2010)などと共同制作を行い、その際の大筆を使ったパフォーマンスは、記録映像として残っています。
比田井の活動はつねに、書とその他の視覚芸術の境界を越えるものとして展開しました。比田井が率いた前衛書運動は、第二次大戦後、世界各地で勃興し、相互に影響を与えあった芸術運動の一つとして捉え直されるべきでしょう。本展では1961年に西ドイツで開催された「現代日本書展」(フライブルク芸術教会主催)に出品された《作品60-1》(1956年)、1964年のニューヨークのMi Chou Galleryでの個展に出品された《作品 64-13》(1964年)など、比田井の海外での活動がもっとも活発であった時代の作品を紹介する予定です。
0コメント