「批判」。世の中の主流の見方とは違う見方を提供すると、すぐに「○○批判をしている」と短絡的にまとめられてしまう風潮は、いつ始まったのでしょう? そのような性向は、いつ、豊かだった私たちの言葉文化の中に入り込んでしまったのでしょう?
こんな風潮の世では、「古池や 蛙飛びこむ 水のおと」と詠んだら、「芭蕉は古池を賛美し、新しい池を批判している。「古池への回帰」というメッセージを発している」などと言われてしまうのかもしれません。
すぐ「批判だ」とか「メッセージは何だ」とか、気短かにまとめて「批評」する習性が私たちの思考を侵しはじめたのは、いつのことなのでしょう?
古池と、蛙と、水のおとと静寂が、ただそこに、一つのものとしてある複雑さを、なぜそのまま感知してはいけなくなってしまったのでしょう?全体をゆっくり感知して、味わってから何かを言うのでは、遅いのでしょうか。
《P99》(小沢健二『うさぎ! 沼の原稿 ひふみよ限定版 二〇一〇年夏』より)
質問をされるたびに思う。質問というものは、その人が世界をどう見ているかを如実に表す、どんな背景があって、その質問は生まれるのか?どうしてその人は、その質問をするのか?
《P116》(小沢健二『うさぎ!』第二十二話より)
みんな生きる上で問題に直面した時に、それを解こうとするのだけれど、人によって問題を解くのにかかる時間は違うし、問題そのものも違う
《P125》(「小沢健二に聞く」「ひふみよ」より)
世の中の主流の意見と違う意見を言うのって難しい。どうしても主流の意見よりもわかりにくくなってしまう。聞く方は、聞いたことも考えたこともない、新しい角度の話を聞くのだから、当然ついていくのが難しい。
逆に言うと、世の中の主流の意見に合わせたことを言うのはとても簡単。読み手の側に、あらかじめ話の流れがあるから、すっと入ってくる。
そんなわけで、世の中の主流と違うことを書く人はみんな、苦しむわけだ。もちろん読む人も、すらすらとは読めない。
例えば音楽でも、ミュージシャンの活動の初期とか特に、ありきたりの音楽と違うことをやろうとして、苦しんでるような美しさがあるアルバムが現れたりする
画家とかでも、その人が絵のスタイルを変える時に、その最初の段階で、いらいらしたような、怒ったような、まとまらない美しさがある絵が現れたりする
《P129》(小沢健二『うさぎ!』第十九話より)
ダサカッチョ。ダサくて、かっこいい。かっこ悪くて、同時にかっこいい。
「今夜はブギーバック」は、ダサカッチョの極みです。あの曲は全然かっこよくないのです。どんな観点から見ても。そこはかとないパセフィック(情けない、哀れ)な感じが漂っている。それなのに、おそろしく力強く、根性があって、はかなくて、楽しくて、かっこいい。
そういう曲だから今でも愛されて、今でもみんなが、そして僕らが、気持ち良く歌うことができるのではないかと思います。カラオケとか、ライブとかで。
開き直ること。かっこ悪いまま、自分たちのかっこよさを、一瞬で取り返すこと。
《P177》(小沢健二『うさぎ!』第二十七話より)
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