「尾崎豊はいったい何と闘っていたんだろうか?」:尾崎豊さんの25年目の命日に寄せて


尾崎豊の時代、1970年生まれの僕はちょうど中学生でした。

彼のいわゆる10代3部作は、1stアルバム『17歳の地図』が83年なので、僕は13歳の中1。

2ndアルバム『回帰線』が85年3月なので、僕14歳で中2の春休み。

そして85年11月28日、尾崎の20歳の誕生日の前日にリリースされた3rdアルバム『壊れた扉から』はまさに高校受験真っ盛りの15歳の中3だったのです。

僕はもちろんのことロック好きな中高生は圧倒的に尾崎豊を聴いていました。

圧倒的に若い世代に支持されていました。

というか僕の頭の中の記憶では、中高生“全員”が聴いていました。

僕ら世代の、まさに僕らの思いの熱き“代弁者”だったのです。

その後、僕が高校になると、尾崎豊は一息つくように活動停止状態になり、ロック好きな僕ら世代は、代わりというわけではないですけれど、でもやっぱり代わりを求め始めました。

僕らの思いの“代弁者”の代わりを、やっぱり若者は求めたのです。 

そして、僕が17歳で高2、87年に衝撃的に登場したのがブルーハーツです。

みんなあの強烈なメッセージに一瞬でとりこになってしまいました。

全員、今度はブルーハーツを聴いていました。僕の頭の中の記憶では本当若者全員です。完璧に全員です! 

全員が「リンダ、リンダ」と絶叫していました。 

そうなのです。いろんな異論反論があるでしょうが、僕の実体験では、80年代の前半後半で、尾崎豊の歌が好きなような“ロック好き”は、80年代前半の“尾崎豊”から80年代後半の“ブルーハーツ”に移行したんじゃないかと思われるのです。

実際その後、尾崎豊はさまざまな事件があって、僕が大学1年生になった90年に彼はそんな生きることの苦しさや喜びを綴った復活の2枚組アルバム『誕生』という傑作を出すのですが、僕の周りではそれを熱狂的に語る若者たちは既にいなくなっていました。

あの中学生の頃の熱がまぼろしだったかのようにすーっと冷め、誰も尾崎のことを口にしてなかったように思います。

そして92年の4月に彼は突然亡くなってしまいました。

もしかしたら僕らが中学生から高校生、大学生と成長していって、尾崎豊への熱がオトナになるにつれてただ冷めていっただけかもしれません。

あるひとつの青春のささいな出来事、あくまで聴いていた僕ら側のささいな問題なだけなのかもしれません。

なのでこれから僕の書くことはあくまで僕の主観です。

間違っているかもしれません。

たぶん間違っています。

でも書きます。 

「尾崎豊はいったい何と闘っていたんだろうか?」

僕は、尾崎豊は「オワコン」と闘っていたんだろうと思っています。 

もちろん当時旬を過ぎた、古くなったものを指す「終わったコンテンツ」=オワコンなんて言葉は当然ありません。

当時で言えば「時代遅れ」になることと闘っていたんだろうという意味です。

そして、本当の死因はどうであれ、尾崎豊は、その「オワコン」との闘いに敗れて死んでしまったのではないかと僕にはどうしても思えてならないのです。

あの頃、本当に僕ら全員尾崎豊を支持していました。

彼は言ったのです、「僕らを支配する“社会のルール”“オトナのルール”“学校のルール”そんな支配から卒業せよ、闘え」と。

でもそんな社会やオトナや学校と実際には闘えない僕らは、彼のその“代弁”に共感し胸を打たれ、そして彼を圧倒的に支持したのです。

しかしほどなくして、その共感はすーっと引いてしまいました。 

僕らが“代弁者”としての尾崎豊に悪意を持ったわけではないのです。

いつの間にか“すーっと”なくなってしまったのです。

尾崎にそんなに興味がなくなったのです。

この“そんなに”がポイントです。

嫌いになった訳では無いのです。

“そんなに”という消極的な感じで、ただ関心が薄くなり、他のコンテンツに興味が移っただけなのです。

僕はこう思うのです。

もし、「尾崎豊なんか、すげーダサい! 大キッライだ」と強く強く否定されたとしたら、きっと尾崎豊はそんな明確な“否定”に対してなら闘えたんじゃないでしょうか。

まだまだ彼はやれたんじゃないでしょうか。

「今にみていろ!」とそんな敵に対して尾崎は闘いを挑み続けたんじゃないかと思うのです。

そしてもし闘いを挑み続けられたなら、彼があのとき死ぬことはなかったんじゃないかとさえ僕は思うのです。

話は突然変わりますが、みなさん「四面楚歌」ということわざは知っていると思います。

“周りを敵や反対者に囲まれて孤立し、助けの無い状態のこと。孤立無援。”

ですが、この“四面楚歌”の故事を知っていますか? 

司馬遼太郎に『項羽と劉邦』(新潮社)という名作があります。

俗に項羽と劉邦は百戦闘って、項羽は99回勝ち、劉邦は99回逃げまくったのですが、最後の一戦「垓下の戦い」で項羽は敗れ、勝った劉邦が漢の国を起こしたという中国の史実があります。その「垓下の戦い」のときの逸話が「四面楚歌」のいわれです。

垓下での戦いで、ついに項羽が劉邦軍に四方八方を囲まれ、周りから楚の国の歌が聞こえ、項羽は周りをぐるっと敵に囲まれたことを知り、負けを悟ったという話なのですが、それならば楚の国の歌というのは、項羽にとって敵国の歌という意味になります。

ところが実は項羽自身は楚の国の人なのです。

“周りを敵に囲まれた”のではなくて、“今まで自分を支持していた楚国の兵士が自分を寝返った”ということを項羽は悟ったのです。

項羽も敵国の兵士が自分を囲っていたのならば、99勝した男です、まだまだ奮起を起こし戦い続けたと思うのです。

しかし今まで自分を支持してくれた者が一斉に反逆したのならば……項羽はもう戦い続けることができなくなってしまったのです。

尾崎豊も今まで圧倒的に自分を支持してくれた者たちに、すーっと引かれたことに、オワコンだと思われたことに、失意したのではないでしょうか。

社会という圧倒的な敵にたいして「卒業せよ!」と歌った尾崎豊に共感した若者たちが、今度は彼を卒業する。

それも消極的な無関心という名の“卒業”。

当時は「オワコン」という言葉はありませんでしたが、そんな終わったコンテンツ=オワコンという名の“卒業”に彼は敗れてしまったんじゃないでしょうか。

きっと彼はオワコンと闘って、オワコンとの闘いに疲れ果てたのです。

しかしこれは決して尾崎豊さんのことだけではありません。

さまざまなジャンルのタレントやアーティスト、コンテンツや、テレビや雑誌などのメディアにも多かれ少なかれ当てはまるのだと思います。 

そして、僕はあることにふと気付きました。。“オワコン”というのは、そのコンテンツを楽しむまさに僕らそのもの、視聴者や消費者すべての一般人にも普段の社会や日常で突きつけられていることなんじゃないかと。

僕らが誰かをオワコンと認定するだけじゃなく、そんな僕ら自身も周りからオワコンと認定されるんじゃないか、と。 

《『成功の神はネガティブな狩人に降臨するーバラエティ的企画術』より 第4章 14.“旬”と“終わり”からの解放を宣言する 》

角田陽一郎/Kakuta Yoichiro DIVERSE

バラエティプロデューサー/Variety Producer 著書『13の未来地図フレームなき時代の羅針盤』 『「好きなことだけやって生きていく」という提案』『最速で身につく世界史』『成功の神はネガティブな狩人に降臨する-バラエティ的企画術』『究極の人間関係分析学カテゴライズド』/映画「げんげ」監督/ 水道橋博士のメルマ旬報連載中/渋谷のラジオ金曜朝10時[渋谷で角田陽一郎と]/MX オトナに!

0コメント

  • 1000 / 1000